私を通して誰が泣いているのか?

 

時々、ふと大きなクリーニングの機会が訪れることがあります。

 

最近のそれは、ある方の整体指導前に、内感愉氣をしていた時でした。

 

いつも違和感のある体の場処ではあったのですが、

 

その日は、違和感が消えていくのではなく、

どんどん動き出して、

最後には、私を通して誰かが泣き出してしまいました。

 

 

とても苦しそうで、何かを我慢しているようでもあり、

悲しんでいるようでもあり何かを後悔しているようでもあり。

 

どうやっても、今を生きている「私」である感覚はなく、

どこか遠くの、「私」であった人のようでもあり。

 

「“虫”なのかなぁ」と頭もかすめたりしつつ、

 (いや、全部虫と言えば虫なのでしょうね)

 

「今にはない“過去”に生きた私が、今同時に癒されているのかなぁ」という感覚もあり。

私を通して泣いている誰か(私)と、それを俯瞰している自分がいました。

 

 

それでもしばらくすると落ち着いてきて、

胸の奥の感覚が透明になった感覚とともにしばらく動けず。

 

 

普段の内感愉氣でいつもこんなことが起こるわけではないし、

起こったほうがいいというわけでもありません。

 

(ある意味、純粋な愉氣を途中からはできておらず、

 出るに任せてしまっている状態とも言えます)

 

けれど、時々起こるこういうことが、

わがことながら、本当に興味深く。

 

 

結局、「私」って、何なのか。

 

そして、こういうクリーニングを通して、

”虫”という”私が”旅立っていくことを繰り返していたら

結局は最後は、空っぽになっていくだろうと思うと、

 

本当に、私が”虫”そのものともいえるのかもしれない。

 

「私」って、何なんだろう。

 

 

(永井 晶)

 



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